居眠り磐音・自問自答

「あれこれ」書きたいのですが、・・・、たぶん、・・・、ずっと「居眠り磐音」一辺倒!

163.あの場所は今  6 「直心影流佐々木道場」 20201201

居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 6
直心影流佐々木玲圓道場」

 

佐々木道場の場所が出てくるのは
双葉文庫版 第1巻 陽炎ノ辻 第二章 暗雲広小路 83p に
『 「神田三崎町の佐々木道場で目録を・・・・・・」 』
と磐音が金兵衛に言ったのが最初です。
ただし 決定版(文春文庫版)では この部分は
『 「神保小路の佐々木道場で目録を・・・・・・」 』
となっています。
決定版のこの部分には 神保小路が 何処にあるのかが書いてありませんが 決定版では この後に
『 直心影流佐々木道場のある地名の神保小路は里俗である。
この名称は元禄二年(一六八九)、直参旗本神保長治が神田小川町に九百九十五坪の屋敷地を拝領したことに由来する。 』
とあって 神保小路は神田小川町にあることになります。
また
双葉文庫版 第5巻 龍天ノ門 第五章 両国春風一陣 294pには
『 神田三崎町は、神田川に架かる水道橋の南側、武家地が広がる一帯の呼称である。
佐々木玲圓道場は神保小路の一角に旗本屋敷に囲まれてあった。 』
とあり
決定版(文春文庫版) 第5巻 龍天ノ門 第五章 両国春風一陣 295pには
『 神田川に架かる水道橋の南側、武家地が広がる一帯を古くからの住人は、「神田三崎町」と呼ぶ。
直心影流佐々木玲圓道場は「神田三崎町」の一角、神保小路にあった。 』
とあります。

三崎町と 小川町 どっち? と疑問が出てきます。
ちなみに 「神田三崎町」をインターネット検索をするといっぱいヒットしますがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/神田三崎町 には
『 江戸開府以前は当該町域は三崎村と呼ばれた。江戸時代に徳川家康をはじめとする歴代の将軍が城下町として開発し、大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶ町となった。江戸時代を通じて小川町と呼ばれ、幕府の講武所が設けられた。1866年(慶応2年)11月に講武所は廃止され、陸軍所が吸収。明治維新後は陸軍の練兵場として使用された。1872年(明治5年)に東京府下の町が新町名に改称した際に、当該町域も「三崎町」と改称した。 』

とあって 江戸時代には 「神田三崎町」あるいは「三崎町」の名前は使われていなかったことを示唆しています。
 ま それはともかく はっきり言えることは「神保小路」は 現在神田神保町2丁目地域にある「さくら通り」となります。

吉田喜久雄さんの労作「『居眠り磐音』江戸地図」にある「佐々木道場」が次の図です。

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近所には 井戸家 明楽家 本郷家 の名前が見えます。
このほかに 松前家 雨森家 通りの名前になった 神保家もあります。

吉田さんの地図では 佐々木道場は 神保小路の東詰めに描かれていますが 吉田さんが参考にされた第38巻までより後 つまり第39巻以降の
第40巻 春霞ノ乱 第四章 正睦の行方 230p(双葉文庫版)(文春文庫版では234p) に
重富利次郎が
『 「若先生、尚武館の右隣は寄合席七百八十石松宮多聞様の御屋敷にございましたな」
「若先生、松宮家の西側に蔵がございます。旧尚武館の敷地は蔵の風抜き窓から丸見えと思いませんか」 』
と言っています。
このことから 神保小路東詰め あるいはもう少し西寄りには「松宮家」があって その西隣が「佐々木道場」ということになります。
このことから 「佐々木道場」の今は 神田神保町2丁目11番と13番の街区に当たるかと思います。
ということで 下の写真の道路右側さくら通り東詰めに立っているの名板のところが「松宮家」とすると その奥の街灯から先が「佐々木道場」ということになります。

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少し近づいてみました。

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上に 
近所には 井戸家 明楽家 本郷家 の名前が見えます。
このほかに 松前家 雨森家 通りの名前になった 神保家もあります。
と書きましたが これは 「イワネ」の中に描かれていることです。

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嘉永3年(1850) 江戸切絵図

 

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文久3年(1863) 江戸切絵図
でも 上の神保家以外は 磐音がいた時代の神保小路の地図には 載っていません。

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明和8年(1771)分間江戸大絵図

 

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天明9年(1789)分間江戸大絵図

 

史実の中に 架空の磐音たちを登場させて 実在の人物たちと関係を持たせるのは ものすごく大変なことと思います。
それだけに 磐音のいた時代の地図の中で 磐音たちを活躍させてもらいたいな~ と思います。
その方が 矛盾が出にくいかと思います。

こんなことを書いていますが 僕も 奥さんも 「イワネ」にハマッテいます。
磐音や 磐音の周りにいる人たちの人柄に イワネのすじがきに ハマッテいます。
ハマっちゃって 何度も読み返していたら あの場所は今どうなっているんだろう って思い始めて 現地調査! をしたくなって 調べてみると ??? ってなって こんなことを書くようになっちゃいました。

著者・佐伯さんが 第1巻 陽炎の辻 のあとがき 355p(双葉文庫版)(文春文庫版では361p)で
『 主人公が住むことになった舞台、江戸深川六間堀町について書いておきたい。 現在は江東区常盤町一丁目あたり。下町人情は今も健在であろうが、往時の江戸を偲(しの)ぶ縁(よすが)はすくない。 そんなとき、私は古い地図をひたすら見詰める。すると絵地図の向こうに江戸の家並みがすうっと浮かび上がる。やがて、大家の金兵衛の風貌や鰻捕りの幸吉少年の体つきが像を結び始める。 そうなればしめたもの。あとはそれぞれが勝手に一人歩きを始める。ああしろ、こうしろ、と作者に命令する。 こんなとき、小説家であることの至福を感じる。 』
と書いています。
なんで 嘉永年間の「古い地図」をひたすら見つめちゃったんでしょう?

明和8年(1771)や 天明9年(1789)の 分間江戸大絵図 もあるんですけどね。

 

 

 

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