居眠り磐音・自問自答

「あれこれ」書きたいのですが、・・・、たぶん、・・・、ずっと「居眠り磐音」一辺倒!

223.あの場所は今 16「小梅村今津屋御寮」 20220425

「小梅村今津屋御寮」

奥さんが テレビの「居眠り磐音 江戸双紙」を見ていて
原作を読み始めて はまっちゃって
僕もつられて 見たり読んだりして はまっちゃいました。
そこで 磐音と闘った人たちとか 各巻各章に出てきた人たちとか
磐音ゆかりの場所の今とか を紹介したくなって、・・・、紹介しています。

前回紹介した「三囲神社」は 今津屋の御寮の近くにあります。
紹介する 順番が逆になってしまいましたが 今回は 「今津屋の御寮」の今を紹介します。

「今津屋の御寮」が 初めに出てくるのは

居眠り磐音江戸双紙 第32巻 更衣ノ鷹(下) 第五章 死と生 p314 かと思います。
-------------------
「明朝六つまでに尚武館を退去せねばなりませぬ。とは申せ、養父と養母を
深川の金兵衛長屋に連れていくこともならず」
「みなまでおっしゃいますな」
と応じたのは由蔵だ。
「旦那様、佐々木様ご一家には、小梅村の御寮に引っ越していただいてはどうです」
「それがよろしい」
吉右衛門が即座に言い、
「老分さん、町内の鳶連中を神保小路に差し向けて、大八で筋違橋御門まで
往来させなされ。また筋違橋下に川清の船を集めて、大八の荷を小梅村に
送り込むのです。
-------------------
とあります。

前回でも紹介しましたが 吉田喜久雄氏の労作:磐音ゆかりの地図には 三囲神社と 水戸徳川家下屋敷に挟まれて 「今津屋寮(尚武館坂崎道場)」が 描かれています。

明和8年(1771)や 天明9年(1789)の 分間江戸大絵図では 「今津屋寮(尚武館坂崎道場)」の場所は 本多(弾正)家となります。

明和8年(1771)分間江戸大絵図から

この場所は 今 どのようになっているか、・・・、行ってきました。


その前に 今の地図で見ると 「三囲神社」の南側は 「墨田区立小梅小学校」となっています。

居眠り磐音江戸双紙 第33巻 孤秋ノ春 第一章 弔いの日々 p008に

-------------------
別当延命寺三囲稲荷と隅田川に挟まれた岸辺に、江戸両替屋行司の今津屋の御寮はあった。
当代吉右衛門の二代前の祖父がこの地の風光明媚に魅惑され、七年の歳月をかけて作った御寮の敷地はおよそ千三百余坪、隅田川と並行して流れる堀の水が御寮に引き込まれ、北から南に回流して再び堀へ、そして隅田川へと戻っていった。
藁葺きの御寮に若い武家の夫婦が引っ越してきてひっそりと住み始めた。
佐々木磐音とおこんである。

-------------------
とあります。

別当延命寺三囲稲荷と隅田川に挟まれた岸辺に」とあると 三囲稲荷の西側あるはずですが 吉田さんの地図では、・・・、ま、 細かいことは言わないことにします。
「御寮の敷地はおよそ千三百余坪」とありますので 正方形の敷地とすると 3.3(平方メートル)×1300(坪)=4290平方メートルとなって 一辺は約65.5m と換算されます。
Gの距離測を使ってみると 小梅小学校の敷地より 一回り狭いくらいかな? という感じです。

道を挟んで三囲神社に対面する側にある小梅小学校の出入り口です。

 

小梅小学校の南東側の道路からの写真です。

右奥に三囲神社の鳥居が見えます。

 

 

 (04761)
----- 本文はここまでです。 コメントボタンは 左下にあります。 -----