居眠り磐音・自問自答

「あれこれ」書きたいのですが、・・・、たぶん、・・・、ずっと「居眠り磐音」一辺倒!

224.あの場所は今-17「伝馬会所+札ノ辻+聞安寺」-20220506

「伝馬会所+札ノ辻+聞安寺」

奥さんが テレビの「居眠り磐音 江戸双紙」を見ていて
原作を読み始めて はまっちゃって 僕もつられて
見たり読んだりして はまっちゃいました。
そこで 磐音と闘った人たちとか 各巻各章に出てきた人たちとか
磐音ゆかりの場所の今とか を紹介したくなって、・・・、紹介しています。

「イワネ」の話の流れでは ずっと後になりますが
名古屋の「伝馬会所+札ノ辻+聞安寺」の今を紹介します。

名古屋の「伝馬会所+札ノ辻+聞安寺」が 初めに出てくるのは
居眠り磐音江戸双紙 第三十四巻 尾張ノ夏 第一章 おそめの夢 p040です。

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名古屋が東海道の華として咲き誇った時代からおよそ五十年後の、安永八年(一七七九)夏、尾張の城下、札の辻近くの寺に主従四人が住み始めた。
佐々木姓から坂崎に戻った磐音とおこんの夫婦、弥助と霧子の四人である。
むろん坂崎としてではなく、小田原藩町奉行和泉常信が臣下清水平四郎、いねの夫婦に奉公人弥助と霧子の名でだ。
清須越が行われた慶長十八年、本町通と伝馬町筋の辻に伝馬会所が設けられた。
さらに五十数年後に名古屋と江戸を結ぶ書状物品の定期輸送の飛脚会所が設置され、名古屋の中心の一つになった。
札の辻と呼ばれるのは、正保元年(一六四四)に辻の東南角に高札場がもうけられたためだ。
これにちなんで札の辻と呼びならわされるようになった。
情報と物品が集散し、人馬が集まって常に賑わう札の辻近くの聞安寺の長屋を借り受けてきたのは弥助だった。
この長屋にはその昔、寺侍が住まっていたとか。長年無人だったところを庫裏に掛け合い、借り受けた。
掃除をし、自炊の道具や夜具などを磐音と弥助と霧子が揃えて四人が住み始めたのは、名古屋入りして五日後のことだった。
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ここで 札の辻・伝馬会所・聞安寺 が出てきます。

磐音とおこん・弥助・霧子が 名古屋に来た経緯は 佐伯さんの「イワネ」を読んでください。
第三十四巻のことを 第一巻から読むのは ちょっとという方は 第十一巻から それでも ちょっとという方は 第十四巻 まだまだという方は 第三十一巻からでいいです。

さて 行こう 行こうと思っていたところ、・・・、行ってきました。
「札ノ辻」ですが 伝馬町通と本町通りの交差点に「記念碑」(?)があります。
下の写真がそれです。

 

伝馬会所はこの辻の「南西角」にあったといいます。
上の写真の右辺に描かれています。
下の写真は「伝馬会所の今」です。


「記念碑」の写真の真ん中に「高札場」が描かれています。
位置的には佐伯さんが書いている通り「南東角」に当たります。
(佐伯さんは「東南」と書いていますが 正式(?)には「南東」)
だけど「記念碑」は この辻の「北西角」に置かれています。
なんで? と思いましたが、・・・、ま いいや。
とりあえず この辻の「北西角」の写真も下に載せます。


「高札場」が本当にあったはずの場所の 今の写真は下になります。


「聞安寺」ですが 今は 本堂と鐘楼・山門だけになっていました。
磐音たちが住んでいた「長屋」はありませんでした。


佐伯さんは 「ぶんあんじ」と振っていますが 案内板では「もんあんじ」でした。


名古屋の磐音ゆかりの地を訪ねて「今」を紹介する前に 佐伯さんの話に沿って「江戸のあちこち」とか「小田原」とか「箱根」とか「刈谷称名寺」とかを 紹介したいのですが、・・・、いずれ 頑張って紹介するつもりです、・・・、生きてたら。

 

 

(04809)
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