164.あの場所は今 7「速水左近邸」 20201208
居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 7
「速水左近邸」
速水左近邸は 表猿楽町にあります。
このことが 初めに出てくるのは 第11巻 無月ノ橋 第2章 秋雨八丁堀 p114(双葉文庫版)(文春文庫版では p118)で
『 御側衆速水左近の屋敷が表猿楽(おもてさるがく)町にあることを教えてくれたのは、佐々木玲圓だ。 』
と書かれています。
下の図は 吉田喜久雄さんの労作「『居眠り磐音』江戸地図」にある「速水左近邸」が次の図です。
吉田さんの絵図に従えば 小栗坂を下ってきて 通りの右側に 左側の道に囲まれた区画の辻から辻に至る約300mの間(Gの距離測) 小栗坂から 7分の5辺りに 速水邸はあるように描かれています。
この場所の今は 東京都千代田区神田神保町1丁目48−1近辺に該当します。
ただ この場所は 江戸時代には 神田小川町となっていて 小栗坂を背にして通りの左側が 神田猿楽町となっています。
現在では 猿楽町は 小栗坂を下る通りの左側にあって 右側は神田神保町となっています。
とはいえ 江戸町巡り地域一覧 によれば
『 「表猿楽町」は 江戸期に起立して 明治5年(1872)に廃止 明治44年(1911)5月1日に復活 昭和8年(1933)12月31日に廃止 』と 変遷していますが その概要(解説)には
『 明治44年(1911)5月1日、俗称時代よりも町域は狭まったが、猿楽町(丁目無し)が「表猿楽町」と改称して復活。』
とあります。
ということで 現在の神田神保町側も 江戸期には (表)猿楽町だった ということで 吉田さんの絵図通りの場所と考えたいと思います。(神田小川町との整合性が・・・)
で 上に書いたように 「速水左近邸」の今は 東京都千代田区神田神保町1丁目48−1辺りとなります。
ちなみに G.の距離測では 速水左近邸までは 佐々木玲圓道場から約600m 8分の 昌平橋からは1,2km 15分となるようです。
(01657)
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163.あの場所は今 6 「直心影流佐々木道場」 20201201
居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 6
「直心影流佐々木玲圓道場」
佐々木道場の場所が出てくるのは
双葉文庫版 第1巻 陽炎ノ辻 第二章 暗雲広小路 83p に
『 「神田三崎町の佐々木道場で目録を・・・・・・」 』
と磐音が金兵衛に言ったのが最初です。
ただし 決定版(文春文庫版)では この部分は
『 「神保小路の佐々木道場で目録を・・・・・・」 』
となっています。
決定版のこの部分には 神保小路が 何処にあるのかが書いてありませんが 決定版では この後に
『 直心影流佐々木道場のある地名の神保小路は里俗である。
この名称は元禄二年(一六八九)、直参旗本神保長治が神田小川町に九百九十五坪の屋敷地を拝領したことに由来する。 』
とあって 神保小路は神田小川町にあることになります。
また
双葉文庫版 第5巻 龍天ノ門 第五章 両国春風一陣 294pには
『 神田三崎町は、神田川に架かる水道橋の南側、武家地が広がる一帯の呼称である。
佐々木玲圓道場は神保小路の一角に旗本屋敷に囲まれてあった。 』
とあり
決定版(文春文庫版) 第5巻 龍天ノ門 第五章 両国春風一陣 295pには
『 神田川に架かる水道橋の南側、武家地が広がる一帯を古くからの住人は、「神田三崎町」と呼ぶ。
直心影流佐々木玲圓道場は「神田三崎町」の一角、神保小路にあった。 』
とあります。
三崎町と 小川町 どっち? と疑問が出てきます。
ちなみに 「神田三崎町」をインターネット検索をするといっぱいヒットしますがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/神田三崎町 には
『 江戸開府以前は当該町域は三崎村と呼ばれた。江戸時代に徳川家康をはじめとする歴代の将軍が城下町として開発し、大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶ町となった。江戸時代を通じて小川町と呼ばれ、幕府の講武所が設けられた。1866年(慶応2年)11月に講武所は廃止され、陸軍所が吸収。明治維新後は陸軍の練兵場として使用された。1872年(明治5年)に東京府下の町が新町名に改称した際に、当該町域も「三崎町」と改称した。 』
とあって 江戸時代には 「神田三崎町」あるいは「三崎町」の名前は使われていなかったことを示唆しています。
ま それはともかく はっきり言えることは「神保小路」は 現在神田神保町2丁目地域にある「さくら通り」となります。
吉田喜久雄さんの労作「『居眠り磐音』江戸地図」にある「佐々木道場」が次の図です。
近所には 井戸家 明楽家 本郷家 の名前が見えます。
このほかに 松前家 雨森家 通りの名前になった 神保家もあります。
吉田さんの地図では 佐々木道場は 神保小路の東詰めに描かれていますが 吉田さんが参考にされた第38巻までより後 つまり第39巻以降の
第40巻 春霞ノ乱 第四章 正睦の行方 230p(双葉文庫版)(文春文庫版では234p) に
重富利次郎が
『 「若先生、尚武館の右隣は寄合席七百八十石松宮多聞様の御屋敷にございましたな」
「若先生、松宮家の西側に蔵がございます。旧尚武館の敷地は蔵の風抜き窓から丸見えと思いませんか」 』
と言っています。
このことから 神保小路東詰め あるいはもう少し西寄りには「松宮家」があって その西隣が「佐々木道場」ということになります。
このことから 「佐々木道場」の今は 神田神保町2丁目11番と13番の街区に当たるかと思います。
ということで 下の写真の道路右側さくら通り東詰めに立っているの名板のところが「松宮家」とすると その奥の街灯から先が「佐々木道場」ということになります。
少し近づいてみました。
上に
近所には 井戸家 明楽家 本郷家 の名前が見えます。
このほかに 松前家 雨森家 通りの名前になった 神保家もあります。
と書きましたが これは 「イワネ」の中に描かれていることです。
文久3年(1863) 江戸切絵図
でも 上の神保家以外は 磐音がいた時代の神保小路の地図には 載っていません。
明和8年(1771)分間江戸大絵図
天明9年(1789)分間江戸大絵図
史実の中に 架空の磐音たちを登場させて 実在の人物たちと関係を持たせるのは ものすごく大変なことと思います。
それだけに 磐音のいた時代の地図の中で 磐音たちを活躍させてもらいたいな~ と思います。
その方が 矛盾が出にくいかと思います。
こんなことを書いていますが 僕も 奥さんも 「イワネ」にハマッテいます。
磐音や 磐音の周りにいる人たちの人柄に イワネのすじがきに ハマッテいます。
ハマっちゃって 何度も読み返していたら あの場所は今どうなっているんだろう って思い始めて 現地調査! をしたくなって 調べてみると ??? ってなって こんなことを書くようになっちゃいました。
著者・佐伯さんが 第1巻 陽炎の辻 のあとがき 355p(双葉文庫版)(文春文庫版では361p)で
『 主人公が住むことになった舞台、江戸深川六間堀町について書いておきたい。 現在は江東区常盤町一丁目あたり。下町人情は今も健在であろうが、往時の江戸を偲(しの)ぶ縁(よすが)はすくない。 そんなとき、私は古い地図をひたすら見詰める。すると絵地図の向こうに江戸の家並みがすうっと浮かび上がる。やがて、大家の金兵衛の風貌や鰻捕りの幸吉少年の体つきが像を結び始める。 そうなればしめたもの。あとはそれぞれが勝手に一人歩きを始める。ああしろ、こうしろ、と作者に命令する。 こんなとき、小説家であることの至福を感じる。 』
と書いています。
なんで 嘉永年間の「古い地図」をひたすら見つめちゃったんでしょう?
明和8年(1771)や 天明9年(1789)の 分間江戸大絵図 もあるんですけどね。
(01635)
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162.あの場所は今 5「若狭小浜藩江戸上屋敷」 20201126
居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 5
「若狭小浜藩江戸上屋敷」
「第5巻 龍天ノ門 第四章 危機海辺新田」(双葉文庫版237-238p。文春文庫版239p)に
大老酒井忠勝を出した若狭小浜藩十万三千五百石の江戸藩邸は、神田川の昌平橋の南側にあった。
磐音が門番に訪いを告げると、しばらく門前で待たされた。
小浜藩と向き合った丹波篠山藩の門前の出人りをなんとなく眺めていると、背で声がした。
とあります。
下の図は吉田喜久雄氏の労作「居眠り磐音・江戸地図」にある「若狭小浜藩酒井家江戸上屋敷」です。
磐音がいた時代の「昌平橋」近辺には下の図のように若狭小浜藩酒井家(当代は酒井修理大夫忠貫)に関係する場所はありませんでした。
分間江戸大絵図-明和8[1771]
分間江戸大絵図-天明9[1789]
若狭小浜藩酒井家は「雅樂頭酒井家」ですから、下の図のように「酒井雅樂」として上屋敷が神田橋御門内に(なんと!田沼意次邸と背中合わせで!)ありました。
なお、上の図には左の方に「中屋敷」が描かれています。
分間江戸大絵図-明和8[1771]
「昌平橋」の南側に「若狭小浜藩江戸上屋敷」が描かれているのは嘉永4[1851]の分間江戸大絵図です。(下図)
ということで 時代的な「???」があるのですが、小説の内容を優先させることにして 「若狭小浜藩江戸上屋敷」の今は
になっているということになりそうです。
下の写真は淡路町2丁目の交差点東南角から「ワテラスショッピングモール」の東南の角を撮ったものです。
道を右側に行くと「昌平橋」があります。
ちなみに G.の距離測によれば 豊後関前藩江戸上屋敷からは 550m(約5丁)徒歩7分の 今津屋からは2.1km(約19.4丁)徒歩29分のところとなるようです。
(01603)
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161.あの場所は今 4「豊後関前藩江戸上屋敷」 20201116
居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 4
「豊後関前藩江戸上屋敷」
前回 「次回は 直心影流佐々木玲圓道場」と書いたのですが 納得のいく場所を推測できないでいます。
別サイトで あれこれ書き散らしたのですが また双葉文庫版と文春文庫版(決定版)との整合性や 江戸地図の出版時期のことなどで ??? が溜まっています。
そこで 今回は 「豊後関前藩江戸上屋敷」の今 を紹介することにしました。
第2巻 寒雷ノ坂 第5章 蒼月富士見坂 358p-359p(双葉文庫版)(文春文庫版では361p-362p)に
豊後関前藩六万石の上屋敷は駿河台富士見坂の北側、旗本屋敷に囲まれるようにあった。
表門から御城に向かって南に下ると、右手に常陸土浦(ひたちつちうら)藩九万五千石の、左側には山城淀(やましろよど)藩十万二千石の上屋敷が向かい合っていた。
とあります。
下は吉田氏の労作「居眠り磐音江戸地図」(双葉文庫)の「豊後関前藩上屋敷」の部分です。
下の地図は靖国通りにあった案内図で右の方に「富士見坂」が見えます。
「豊後関前藩江戸上屋敷」は下の地図では「富士見坂」の突き当り「大岡」邸のある街区となっています。
下は 磐音がいた時代(明和8年[1771])の「豊後関前藩江戸上屋敷」付近の地図です。
ほぼ同じ範囲を描いた現在(と言っても2003年ですが)の地図が下の図です。
面白いことに1856年当時の富士見坂は現在では「お茶の水仲通り」となっていて 富士見坂の名前は別の道につけられています。
磐音のいた時代にはには明大通りは靖国通りに通じていなかったようです。
上の地図から考えると「豊後関前藩江戸上屋敷」は 今の「太田姫稲荷神社」と「お茶の水スクエア」の場所にあったことになります。
下は「太田姫稲荷神社」の東南角の写真です。
手前が 「富士見坂」で 当時この場所は丁字路になっていて右に行く道はありませんでした。
上の写真は「太田姫稲荷神社」の鳥居ですが後ろのビルも「豊後関前藩江戸上屋敷」だったことになります。
ちなみに 「豊後関前藩江戸上屋敷」は G.の距離測で「金兵衛長屋」からは約4.3km徒歩58分、「今津屋」からは約3km41分、「佐々木道場」からは650m9分となるようです。
(01,555)
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160.あの場所は今 3 「今津屋」 20201108
居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 3
「今津屋」
第1巻 陽炎ノ辻 第2章 暗雲広小路 85p(双葉文庫版)(文春文庫版では90p)に
金兵衛が 「両国西広小路に、今津屋吉右衛門様が両替商の分銅看板を掲げておいでになる。」と言っています。
また 88p(双葉文庫版)(文春文庫版では93p)には 米沢町の角に堂々たる店構えを見せる今津屋の前に辿りついた。 とあります。
吉田喜久雄氏の労作「磐音ゆかりの地図」は以下のように描かれています。
明和8年(1771)の「分間江戸大絵図」の両国橋西広小路と米沢町です。
この地図によると米沢町は西から東へ1丁目から3丁目がありますが 吉田氏の絵図からは2丁目に当たるでしょうか?
この場所の「今」を あれこれ考えると 「産業会館通り」の南側沿いになるのでは? と思っています。
次の写真の自動車が止まっているところ手前からそこそこの間口を持って「今津屋」があったと思います。
当時は 道路の右側は 西広小路で 建物はありませんでした。
写真下辺の道路は「浜町河岸通り」になります。
ちなみに G.の距離測によると 金兵衛長屋から今津屋までは 両国橋東詰経由で 約1.6km 徒歩で21分程度の距離になるようです。
次回は 「神保小路」の「直心影流佐々木玲圓道場」の今 ですかね。
(01,498)
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159.あの場所は今 2 「鰻蒲焼宮戸川」 20201030
居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 2
「鰻蒲焼宮戸川」
双葉文庫版 第1巻 陽炎ノ辻 第二章 暗雲広小路 75p(文春文庫版では77p) に
「北之橋前の宮戸川って鰻屋でさ。・・・」と金兵衛が言っています。
同じ章の 75p(双葉文庫版)(文春文庫版では80p)には
幸吉は北之橋を渡ると「鰻蒲焼宮戸川」の暖簾をかかげた小体な店の前を通り過ぎて、裏口に回った。
第1巻 陽炎ノ辻-第五章 雪下両国橋 310p(双葉文庫版)(文春文庫版では316p)
由蔵「おこんさん、これはどうしたことで ・・・・・・」
おこん「南六間堀町の宮戸川さんが、陣中見舞いだとお届けくださったんですよ」
由蔵「宮戸川さんとはお付き合いもないのに」
との会話があります。
この文章から 吉田喜久雄の労作が描かれたと思います。
次の地図は 新大橋の一部・御籾蔵・六間堀町などが描かれていますが 金兵衛長屋の場所は六間堀町にはなっていません。
また 宮戸川の場所は「北森下町」です。
ただし、この地図は磐音がいた時代から80年以上後の安政5年(1858)の本所深川絵図(尾張屋清七版)です。
次の地図は明和8年(1771)の分間江戸大絵図の一部です。
この地図には 御籾蔵がなく町屋になっています。
六間堀町もなくほとんどが森下町です。
この地図は 明和9年の大火事よりも前のものですから 大火事以後新大橋東の町屋を御籾蔵にしたのでしょう。
ま それはともかく 「宮戸川」のあったところの写真が次の2枚です。
ただ 今とは道路の幅も 六間堀の跡も違いますから 相対的位置でしかないのですが 六間堀を北の橋で渡ったところ 吉田喜久雄さんの地図によれば 北の橋東詰東北角となっています。
上は北の橋西詰南から「宮戸川」を撮しました。
北の橋東詰め北側から「宮戸川」を撮しました。
左に入る道路は六間堀東側の河岸路です。
手前左側の植え込みは六間堀跡になります。
ちなみに G.の距離測では 「金兵衛長屋」から「宮戸川」までは約350m 徒歩で5分となります。
次回は 「今津屋」の今 ですかね。
(01478)
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158.あの場所は今 1 「金兵衛長屋」 20201022
居眠り磐音江戸双紙 登場人物 まとめ は ちょっとお休みをいただいて
居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」
を書きたくなっています。
「金兵衛長屋」
初めは磐音が関前を出て江戸に来てから住み始めた場所です。
双葉文庫版第1巻第二章69から70ページにわたって以下の文章があります。
長さ百十六間の新大橋を渡り切ると御籾蔵にぶつかった。
磐音は右に曲がり、御籾蔵の塀に沿って左に折れた。蔵の右手は町屋で深川元
町、六間堀町と続いて、小名木川と堅川を結ぶ堀に出た。
その堀に猿子橋が架かっていて、南六間堀町とを結んでいた。
磐音は六間堀町の裏長屋、金兵衛長屋の木戸を潜ろうとして、猿子橋の袂にど
てらを着た大家の金兵衛が立っているのを認めた。
磐音が住んでいる金兵衛長屋は深川元町に続く六間堀町にあることになります。
下は 吉田喜久雄さんの労作「居眠り磐音江戸地図」にある金兵衛長屋です。
ところが 江戸切絵図などを見ると 深川元町に続く六間堀町はありません。
猿子橋を渡った北側は南六間堀町となっていて「イワネ」の文章通りです。
猿子橋の周りには六間堀町はなくもっと北の六間堀と五間堀が合流するところにあります。
金兵衛が「六間堀の金兵衛」と啖呵を切るのは気持ちがいいです。
これが「深川元町の金兵衛」となると歯切れが悪い。
江戸切絵図通りのところの六間堀町に金兵衛長屋があると猿子橋や御籾蔵や新大橋のとの関連が薄くなってこれまた悩ましくなります。
こんなことを佐伯さんは考えて深川元町に続く「六間堀町」を作っちゃった!のかな?と思ったりしますが悩ましいです。
もしかすると僕が見ている江戸切絵図とは別に深川元町に続く六間堀町が「ちゃんとある」別の古地図があるのかしら?とも思ったりします。
ここら辺のことを佐伯さんが解説してくれるといいのだけれど と思います。
吉田喜久雄さんも「居眠り磐音江戸地図」を作るのに悩んだのでは? と思います。
実は 上の江戸切絵図は嘉永2年(1849)に作られて文久3年(1863)に改正されたもので「イワネ」の時代より70年余り新しい時代の地図です。
明和9年(1772)に作られた地図もあるようですが「金兵衛長屋」の場所を含んだものを見つけられないでいます。
ま あれこれ言っても仕方ないので(僕的には地図を改変したり時代を違えたりするのは賛成できないませんが)深川元町に続く六間堀町があることにします。
「金兵衛長屋」あった場所は常盤1丁目交差点の南西角となります。もちろん道幅などは大きく変わっているでしょうからピンポイントでの場所指定ではありません。
左側の道路は六間堀西側の河岸道になります。
上の写真は金兵衛長屋北東角から「猿子橋」を撮したものです。
奥の横断歩道から少し先までのところです。
なので六間堀はこの写真の建物の部分にありました。この建物の先の街路樹が六間堀の東側の河岸道に当たります。
でも建物の西端から東端までは20mほどありますので六間堀はその半分くらいの幅しかなかったはずです。
上の写真は猿子橋の西詰から撮った「御籾蔵」です。
右に撮っている街灯のところが御籾蔵の南東の角になります。
金兵衛長屋は道路を挟んで南側(左側)になります。
道路の奥突き当り(今は四つ辻ですが)を右に曲がると左手に新大橋があります。
今では四つ辻を横断したところに新大橋跡の石柱があります。
道路を挟んだ対面は御籾蔵の西側で金兵衛長屋へ行く道は石柱に隠れています。
こんな調子で磐音ゆかりの「あの場所は今」を紹介していければいいなと思っています。
(01457)
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