居眠り磐音・自問自答

「あれこれ」書きたいのですが、・・・、たぶん、・・・、ずっと「居眠り磐音」一辺倒!

158.あの場所は今 1 「金兵衛長屋」 20201022

居眠り磐音江戸双紙 登場人物 まとめ は ちょっとお休みをいただいて

居眠り磐音 江戸双紙 「あの場所は今」 

を書きたくなっています。

金兵衛長屋」

 初めは磐音が関前を出て江戸に来てから住み始めた場所です。

双葉文庫版第1巻第二章69から70ページにわたって以下の文章があります。

長さ百十六間の新大橋を渡り切ると御籾蔵にぶつかった。
磐音は右に曲がり、御籾蔵の塀に沿って左に折れた。蔵の右手は町屋で深川元
町、六間堀町と続いて、小名木川と堅川を結ぶ堀に出た。
その堀に猿子橋が架かっていて、南六間堀町とを結んでいた。
磐音は六間堀町の裏長屋、金兵衛長屋の木戸を潜ろうとして、猿子橋の袂にど
てらを着た大家の金兵衛が立っているのを認めた。

磐音が住んでいる金兵衛長屋は深川元町に続く六間堀町にあることになります。
下は 吉田喜久雄さんの労作「居眠り磐音江戸地図」にある金兵衛長屋です。

吉田氏地図「金兵衛長屋」

吉田氏地図「金兵衛長屋」

ところが 江戸切絵図などを見ると 深川元町に続く六間堀町はありません。
猿子橋を渡った北側は南六間堀町となっていて「イワネ」の文章通りです。

江戸切絵図

戸切絵図

猿子橋の周りには六間堀町はなくもっと北の六間堀と五間堀が合流するところにあります。
金兵衛が「六間堀の金兵衛」と啖呵を切るのは気持ちがいいです。
これが「深川元町の金兵衛」となると歯切れが悪い。
戸切絵図通りのところの六間堀町に金兵衛長屋があると猿子橋や御籾蔵や新大橋のとの関連が薄くなってこれまた悩ましくなります。
こんなことを佐伯さんは考えて深川元町に続く「六間堀町」を作っちゃった!のかな?と思ったりしますが悩ましいです。
もしかすると僕が見ている江戸切絵図とは別に深川元町に続く六間堀町が「ちゃんとある」別の古地図があるのかしら?とも思ったりします。
ここら辺のことを佐伯さんが解説してくれるといいのだけれど と思います。
吉田喜久雄さんも「居眠り磐音江戸地図」を作るのに悩んだのでは? と思います。
実は 上の江戸切絵図は嘉永2年(1849)に作られて文久3年(1863)に改正されたもので「イワネ」の時代より70年余り新しい時代の地図です。
明和9年(1772)に作られた地図もあるようですが「金兵衛長屋」の場所を含んだものを見つけられないでいます。
ま あれこれ言っても仕方ないので(僕的には地図を改変したり時代を違えたりするのは賛成できないませんが)深川元町に続く六間堀町があることにします。

「金兵衛長屋」あった場所は常盤1丁目交差点の南西角となります。もちろん道幅などは大きく変わっているでしょうからピンポイントでの場所指定ではありません。

「金兵衛長屋」の今

「金兵衛長屋」の今

左側の道路は六間堀西側の河岸道になります。

 

「猿子橋」の今

「猿子橋」の今

上の写真は金兵衛長屋北東角から「猿子橋」を撮したものです。
奥の横断歩道から少し先までのところです。
なので六間堀はこの写真の建物の部分にありました。この建物の先の街路樹が六間堀の東側の河岸道に当たります。
でも建物の西端から東端までは20mほどありますので六間堀はその半分くらいの幅しかなかったはずです。

「御籾蔵」の今

「御籾蔵」の今

上の写真は猿子橋の西詰から撮った「御籾蔵」です。
右に撮っている街灯のところが御籾蔵の南東の角になります。
金兵衛長屋は道路を挟んで南側(左側)になります。
道路の奥突き当り(今は四つ辻ですが)を右に曲がると左手に新大橋があります。
今では四つ辻を横断したところに新大橋跡の石柱があります。

「新大橋東詰」の今

「新大橋東詰」の今

道路を挟んだ対面は御籾蔵の西側で金兵衛長屋へ行く道は石柱に隠れています。

 

こんな調子で磐音ゆかりの「あの場所は今」を紹介していければいいなと思っています。

 

 

(01457)
----- 本文はここまでです。 コメントボタンは 左下にあります。 -----